青は透明

思考のたれ流し

ミュージカル映画について

僕はミュージカル映画が好きではありません。

 

映画を見る際、私たちは映画の中の登場人物に共感し、

同調することができます。だから感動したり、笑ったり、腹が立ったりする。

 

その為には、一般的な物語の上では、登場人物は常に「人間」である必要があります。ここでいう人間とは生物学的な意味では必ずしもなくて、人間的な感情を持っていれば「人間」と言えます。映画「ベイブ」(1995)に登場する豚のベイブ、「キャスパー」(1995)に登場するおばけのキャスパーも、それぞれ人間ではありませんがとても人間らしく振舞います。人間的な感情を持っていなければ、共感も同調もあり得ません。登場人物が動物であれロボットであれ、彼らは限りなく人間でなくてはなりません。

 

その上で、彼らは「視聴者が納得できるに足る理由」を持って行動する必要があります。言い換えれば、映画の中の登場人物の行動には意味がないといけません。ある人物がコーヒーを「意図的に」こぼしたなら、それには何らかの意味がないといけない。大抵の場合、それは後続のシーンで説明がなされたりして、視聴者は「ああ、だからコーヒーをこぼしたのか」と納得することができます。本当の意味で「意味のない行動」が映画の中に現れているとしたら、それはナンセンスと言えます。

 

明確に「意味のない・意味不明な行動」がなされた場合、その行動を起こした人物は普遍から逸脱した「異常者」として描かれていることになりますが、そういった場合も異常者自身は意味を持って行動していることがほとんどです。映画「セブン」(1995)では、一見して異常と言わざるを得ない猟奇的殺人事件が発生しますが、そこには、「神からのお告げにより、キリスト教の「7つの大罪」を犯した者を罪に準えた方法で殺す」、という明確な動機があります。こうした異常性は、視聴者(=私たち、普遍性)と対比されることで際立ち、前述した「同調・共感」を増幅する要素の1つになり得ます。

 

そうした登場人物たちが各々の行動原理に従い、相互に関わり合う事で、映画作品は完成します。

つまり映画の中で私たちは「非日常の中の日常」を体験していることになります。

非日常とは、「現実世界ではない空間」(=映画の中の世界)であり、「日常」とは「人が明確な理由を持って行動する」世界のことです。スターウォーズのように極めてSFチックな作品でも(=非日常)、登場人物たちの行動は基本的に私たちの理解の範疇を大きく超えることはい(=日常)ということです。

 

僕にとってミュージカルとは、「非日常の中の非日常」です。

歌いだすことに、納得に足る理由が見出せない。非日常的です。

その理由を見つけようとして、見えてくるのが「製作者の意図」です。

どうしても「ここでこのキャラクターを歌わせよう、躍らせよう」という意図が目に見えてしまう。

だから「寒い」「あからさまだ」と感じてしまう。

映画作品において、「製作者」が現れてしまうことが許せない。

少なくとも自分には製作者の意図を明確に感じてしまうのです。

だからミュージカルが好きではない。

 

ここまで書いておいてなんですが、別にミュージカル映画を批判しているわけではありません。そういう映画があってもいいと思うし、それを楽しめる人が羨ましいとも思います。ただ単に自分には受け入れることができないというだけで。

 

なんでもいいけど例にあげた映画全部1995年の作品だな。たまたまです。