青は透明

思考のたれ流し

映画「グッバイ・リチャード」感想 待ち受ける死に対しどう向き合うか?

filmarks.com

 

久々感想。

 

大学教授であるリチャードが、既に末期の癌細胞に侵されており余命が持って半年だと告げられる。事実を受け止めきれないリチャードは自棄になり、投げやりな生活を送るようになるのだが、その中で残された時間をできるだけ有意義に使おうとしてゆくリチャードの生き様を描いている。

 

メインテーマとなる「待ち受ける死」について。

思うに、「死」というものの概念の重さは他の何にも勝る。

 

ここでいう「重さ」というのはなんというか、「インパクト」みたいなもの。
人生におけるイベントの終着点、これと天秤が釣り合うほどのインパクトを持つのは「生」(=この世に産まれ落ちること)しかない。
0が1になる生と、1が0になる死、これは概念的には等価で釣り合うはずだし、逆にその物差しで見ればそれ以外のイベントは0を1にしたり1を0にすることもない、「些細なこと」と捉えることさえできる。

 

よく「死ぬよりつらい苦痛」とかって言ったりするが、そもそも死そのものが痛みをもたらすわけではなく、たいていそれは死に至るまでのプロセスで感じる苦痛のことで、交通事故で死ぬ、リチャードのように癌で死ぬ、銃で撃ち殺されて死ぬ、老衰で死ぬ、どれもその過程で感じる痛みはあれど死はただの結果なので死と痛みはそもそも同じ天秤に載せることすらできない。

 

ニュースで世界中の人が今日もまたどこかで死んでいることがわかるのに、身近に感じることのない概念。むしろ死に対して根源的な恐怖を抱いているからこそ、身近に感じることができないようになっているのかもしれない。だからこそ、「あなたの余命はあと半年しかない」という事実を突きつけられた場合、それはさぞ受け入れがたいはず。
なぜならば「いつか死ぬ」とは理解していながら、たいていの場合「それは今じゃない」と思い続けているのだから。

 

相対する概念の「生」の場合、胎児としてこの世に生まれた時点の記憶を保持している人間はいないから、いわゆる「生の喜び」を享受するのはいつだって第三者(親、友人)であり当事者ではない。自分で本来の意味での生の喜びを自覚した人はいないはず。
それに対し、「死」はそれそのものが近くに忍び寄っていることを認識できる状態にいるので、
空虚な人生を生きているとしたら、自分の人生がただ尻すぼみに終わってしまうような気さえしてしまう。生の喜びと死の絶望の重さを等価としたら、ただ釣り合いが取れるだけで、まるでなんてことはない気がするのに。芽吹いた命が枯れゆく自然の摂理のように、と達観できればどれだけ楽だろうか?

 

リチャードは、乾ききった夫婦関係に疲れ、また大学では上辺だけの教鞭をとる、充実とは程遠い生活を送っている中、上述したような死に対する絶望を感じたために、劇中でひどく投げやりになる。
余命宣告されたのは、彼にとって「終わりの始まり」だった。
しかし日を追うごとに冷静になり、「日々を有意義に過ごそう」というような前向きな姿勢になっている。
終わりの始まりの果ての終わりを悲劇ではなく喜劇にしようとするストーリー。
日常に意味を与えるのが、日常の終わりである死というのはなんとも逆説的な感じがする。

 

いわゆる「受容」。それを絶望として捉えず来るべき結末として認識し、であれば残された時間を有効に使おうというもの。
ここがミソな気がする。
「時間を有意義に使おう」なんて当たり前の教訓ではなく、
死という明確な終わりが極めて身近になったことで、時間や自分にまつわる全て(家族、友人、大学の教え子など)の存在をいとおしみ、あらゆる事象を今までと違った視点から捉えようとしたこと。
実はその視点と言うのはリチャード含む誰しもが平時から持っているものなのに、なかなか同じように振る舞うことはできない。
何故なら、死が遠い所にあり、そうあるうちは1が0になるよりも、毎日の仕事の憂鬱さの方が怖いし、人間関係や自身の困窮した経済的な問題など、「些細なこと」のほうに恐怖を感じているから。
「死ぬよりマシ」「死ぬこと以外はかすり傷」、こういう考え方は割と、何にも勝る死の根源的恐怖を端的に示している気がする。
現代社会は生きるか死ぬかという単純化された二極構造ではなく非常に複雑化しているので、死に対する恐怖をある時点まで認識できないようになってしまっている。死を度外視して「どのように生きるか」だけを考えてしまう。たぶん先進国ほどこういう考え方になるんじゃないかしら。紛争地帯などだとまさに「生か死か」という世界だし、逆に安心安全な日本で死の恐怖に怯える人がどれだけいるだろう。

 

誰も彼もが期限付きの人生、愛せる人、大事にできるものが限られているのに、まるで時間は無制限のものであるかのように振る舞い、時間をいたずらに浪費する。なんと愚かしいことか!
死という概念がどすんと落ちてくることで、見えなかったものが浮き彫りになる。
「明日、自殺する」と決意した途端、ある種の全能感を感じないだろうか。他の総ての悩みや苦しみが矮小に思えないだろうか。(三島由紀夫がこんなことを言ってなかったっけ?)
どうせ明日死ぬのだから、自分のしたいことをしたいだけやろう、行きたいところに行こう、食べたいものを食べよう、しゃべりたい人としゃべろう。

そんな気持ちにならないだろうか。

 

でもそれは待ち受ける死という存在が身近にはなくても、遠くに感じていても、それはきっとそのようにあるべき。


....
シンプルに面白い映画だった。
死を受容しどんどん無敵になっていくリチャードは見ていて気持ちいい。
なんか、ジョニーデップが普通の人間を演じているのを久しぶりに見たような。

 

つらつらと長文で限られた人生云々とのたまっているのに休日に夕方まで寝てしまうのをやめられない。誠に愚かしい人間でございます。
死期を宣告でもされたらもう少し精力的になるのかな。。。