青は透明

思考のたれ流し

【重大なネタバレ有】UNDERTALEのストーリーを時系列順にメモ

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本記事はゲーム「UNDERTALE」のストーリーの根幹に関わる重大なネタバレを含んでいます。未プレイの方、これからプレイされる予定の方は見ないことを強くお勧めします。

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以下ネタバレ防止改行

 

ややこしいので、備忘録として書いてます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・ニンゲンとモンスター間で戦争が勃発する。
 ニンゲン側が勝利し、モンスター側は地底世界へ追いやられ、バリアにより閉じ込められる。

 

・201X年、ひとりのニンゲン(First Human)がイビト山の穴に落ち、地下世界へ。
 落ちた所で地下世界の王AsgoreとTorielの息子Asrielに保護される。

 

・AsgoreとTorielの庇護下で、Asrielと共に暮らす。
 ある日First Humanが重い病に罹るが、地下世界では治療できず衰弱する。

 

・First Humanが死亡する。

 

AsrielはFirst Humanの生前の最後の望み(故郷の花を見たい)を叶えるため、First HumanのSOULを取り込み、大きな力を得てバリアを破り地上世界へ。
 


・行き着いた先で誤解からニンゲンの攻撃を受け、重傷を負う。

 


・地底世界へ帰還後、塵となりAsrielが死亡する。First Human、Asriel両者のSOULは消滅する。

 

・深い悲しみを負ったAsgoreはニンゲンのSOULを7つ集め、バリアを破り、自由を取り戻すことを決意する。Torielは犠牲を省みないAsgoreに失望し遺跡(Ruins)に移り住む。
 


Asrielの塵が降り注いだ庭からFlowey(花)が誕生。

 

・AsgoreがAlphysにSOULの研究を依頼する。

 

・AlphysがニンゲンのSOULが死後も何故存在することができるのかを研究し、
 決意(Determination)の力に気付く。
 瀕死のモンスター達に決意の力を注入すると、予期せず彼らが生命力を取り戻した事に驚く。
 


・決意を注入したモンスター達に副作用が現れる。
 ニンゲンと体の構成が違うため、決意を受容しきれず、体が溶けてしまう。
 それにより複数のモンスター達の身体とSOULが結合してしまい、事故の様な形でAmalgamatesが誕生。Alphysはこの事を深く後悔しこの研究について全てを隠すこととした。
 


・SOULを持たない生命体に決意を注入すれば、と考えたAlphysは、城の庭に咲くFloweyに決意を注入する。
 


・Alphysの知る由も無いまま、Floweyが自我を持ち、自ら動き出し城を後にする。
 しばらく地底世界で行動し、SOULを持たない自分に絶望し行動原理が歪んでしまう。
 


・ひとりのニンゲン(Frisk)がイビト山の穴に落ちる。
 Floweyはこの時点でSAVE能力を失う。Floweyに遭遇し殺されかけるが、
 Ruinsに住んでいたTorielに保護され、地底世界での冒険が始まる。

映画「キッチン・ストーリー」(2003)、コーヒーは会話の立役者

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北欧を舞台にした、おじさん二人の心温まる友情を描いた映画です。

ほんとにおじさんしか出ません。

 

物語の経緯としては、ある家庭用品会社が新製品の開発にあたり「独身男性の台所における行動データ」を集めるため調査員を派遣します。

 

調査員のひとりニルソンは、ノルウェーの田舎に住む老人イザックの家に停留します。

調査の際のルールは1つ。

 

「調査対象と会話をしてはいけない」。

 

これ、端から見るとものすごーくヘンテコリンな風景です。

イザックが日常生活を行う傍ら、ニルソンはプールの監視員が座るような高い椅子を隅に置いて、そこからイザックを黙って注視している、という状況。

そもそもイザックはものすごくやりづらそうだし、ニルソンはニルソンで次第にアホらしくなってそうです。
このやり方だと観察者効果(※)がモロに出るのではないかと激しく思うも突っ込まない。
(※社会科学の分野において、被観察者が「観察されている」ことを認識することでその行動に影響を及ぼすこと)

 

事実、ニルソン以外にも調査員はいますが、我慢できずに調査対象と会話してしまったり、挙句の果てに一緒に酒盛りまでしてしまった調査員もいたようです。

 

ニルソンも、一杯のコーヒーをきっかけにしてイザックと会話してしまいます。

 

パーソナルスペースが確保できない空間の場合、コミュニケーションがないと恐らくストレスを助長させるんでしょうね。


同じ部屋にいるんだから喋っちゃった方が楽に決まってる。だからみんな交流持っちゃう。面白い。

 

このおじさんふたりの交流がとても心あたたまります。

 

他愛ない話をしながら煙草を吸って、コーヒーを飲んだり。

イザックの誕生日を大きなケーキとバーボンで祝ったり。
(ケーキにはしゃぐおじさん二人は凄く可愛い。)

なんでもない時間が流れている映画ですが、それがなんともいとおしく思える。

寒い冬だけどふたりのやりとりはほんわかあったかい。

陳腐な言い方だけど、友情に年齢は関係ないと思わせてくれる作品。

 


北欧の文化を生で見たことはないですし、映画や書籍の中にしかその生活様式を見つけることができませんが、

「お茶」は彼らにとって大事なコミュニケーションの要素であるように見えました。

気になったので調べてみた。

以下、Wikipedia先生より一部引用(https://en.wikipedia.org/wiki/Norwegian_cuisine#Beverages
日本語版はなかったので英語版から(ノルウェーの食文化-飲料:コーヒーについて)。


"Norway has a particularly strong affinity for coffee and is the second highest consumer of coffee in the world, with the average Norwegian drinking 142 liters, or 9.5 kg of coffee in 2011. Coffee plays a large role in Norwegian culture; it is common to invite people over for coffee and cakes and to enjoy cups of coffee with dessert after the main courses in get-togethers. The traditional way of serving coffee in Norway is plain black, usually in a mug, rather than a cup.

訳すとこんなかんじでしょうか。

"ノルウェーにおいてコーヒーは非常に生活に根付いており、2011年の調査では、一人あたり平均142リットルのコーヒーが飲まれ(豆の量でいえば9.5キロ)、その消費量は世界でも2番目に多い。家で客人を招く際にケーキと共に出されたり、会食のあとのデザートと共にサーブされたりするのはノルウェーの文化においては至極一般的で、大きな役割を果たしていると言える。ブラックで、かつカップではなくマグカップに注がれたものを出すのが伝統的なやり方である。"


映画の中でも頻繁にコーヒーを飲むシーンがありますが、誇張ではなさそうです。
文化として根付いているようですね。

 

日本でお茶を出す行為はどちらかといえば形式的で儀礼的な要素が強いですが、こちらはもっとカジュアルなもののように思えますね。


なんとなくバックグラウンドで説明が付くので、コーヒー片手に話をするのに違和感が無く、自然で、
かつコミュニケーションの描写に味わい深さを与える重要なアイテムとなっています。
観た後はコーヒーのみたくなる。


余談ですが、途中でニルソンがニシンの酢漬けやらチーズやらサラミを食べるシーンがあって、それがまあ美味しそう。
中でもヴルストを缶詰のまま食べてるのが一番食欲に訴えかけてきた。いい食事シーン。
そのほか、ちょっとした小物やラジオから流れるノスタルジックな音楽など、北欧らしさが各所にちりばめられいて監督のこだわりが感じられました。

映画「キングスマン:ゴールデンサークル」評(※ネタバレ注意)

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キングスマン2作目。

やっぱり面白い。

1作目も含めて述べますが、一応「スパイ」という設定はあるけれども、他スパイ映画にありがちなシリアスさはない。

 

「シリアスさがない」というのはもちろん悪い意味ではなくて、
別の成分がかなりの比率で含まれているから、相対的にシリアス成分が少ない。

たとえばトーマス・アルフレッドソン監督の「裏切りのサーカス」(2011)はスパイ映画としてはかなりシリアスな部類で、シリアス成分100%と言ってもいいくらい。

 

それに対してキングスマン2は「エンターテイメント性」に100%全振りしているといってよいです。(1は85%くらい)裏を読む映画ではなく、見たまんまをそのまんま楽しめる映画です。

戦闘シーンで唐突にかかるハードロックチューン、挽肉機で人間ミンチにされる敵(2回も!)、奇天烈すぎる衣装で悪役にジャンピングキックをかますエルトン・ジョン・・・

上述したような素敵過ぎる要素が盛り沢山で、映画全編が可食部。
観た後はそれはもうおなかいっぱいになれます。

 

以下個人的に好きなところ。

 

・スーツがコスチュームであること
 本来スパイというものは敵国に存在を知られてはいけないものです。
 だから状況に応じた服装で潜入行動をする必要があります。
 イーサン・ハントはパーティ会場に潜入するときにタキシードを着るし、
 KGB本部に潜入するときにはKGB職員の姿に変装します。
 しかしキングスマンはそんなの関係ねえとばかりに一貫してスーツを身に纏います。
 特に今作の場合、明確に「戦いになる」とわかっていてもあえてスーツに黒縁眼鏡。
 これはどちらかといえばspy-ish(=スパイっぽい)よりheroish(=ヒーローっぽい)です。ヒーローは得てして、印象に残るコスチュームを着ることで自らのヒーロー像を
 作るものですが、まさにこれです。性質的にはボンドよりスパイディに近い。
 現実的に考えればスーツを着ることに意味はありません。でも映画の中で
 「英国人」の「キングスマン」が着るとめちゃくちゃかっこいい。
 ヒーロー像を描く映画に無粋なことは言ってはいけない。かっこよければ全てよし!
 
・「ステイツマン」の存在
キングスマンがエグジーとマーリンを除いて全滅した後、隠し金庫から「Statesman」というウイスキーを見つけ出した時点で感づいた人は多かったはずです。
United "King"dom だから"Kingsman"。
United "States" だから・・・"Statesman"。
このクサいとまで言えるほどに熱い展開。
アメリカにもステイツマンなる諜報機関が存在していて、協力関係を結びます。
戦隊モノでいうと「ブラック」が来てくれた展開みたいな。熱い。
しかもこれがまたコテコテにアメリカンでいい。
キングスマンが仕立て屋を隠れ蓑としているのに対し、ステイツマンは酒造業を世を忍ぶ仮の姿としています。だからコードネームもみんなお酒の名前。
シャンパン、ウイスキーテキーラ、などなど。
武器もとってもアメリカナイズドされています。
エージェントウイスキーの得物はカウボーイロープです。
使う銃もシングル・アクション・アーミー。う~ん、ウエスタン。
この2つを使って敵をバッタバッタとなぎ倒すシーンはなかなかの見ものです。

 

・まさかのポンコツ
いろいろあって前代ガラハッド(コリン・ファース)が生きていたことが判明します。
で、最初は記憶を失っているのですが、ショック療法で全てを思い出します。
晴れて現場に復帰し、酒場で喧嘩を売ってくる輩に、語り始めます。
「Manners maketh man」、と。
あのくだりを再び見られるのか!と思ったら、攻撃を外し普通に殴られる
ガラハッドの姿が!そう、しばしのブランクでまさかのポンコツ化(身体能力だけ)。
まあ~これがなんともいえないかわいさで。1の頃の無敵ぶりと打って変わって、
コリン・ファースの違った魅力を味わえます。


「Manners maketh man」は紳士としての美徳ですが、
大事なことを教えてくれています。
即ちは「氏より育ち」。
1作目でハリーが、エグジーに「生まれた環境が悪くても、学ぶ姿勢さえあれば変われる」と
説いていますが、エグジーはこれをまさに実行しました。今では立派なキングスマンで、
大切な恋人がいて、友人を尊ぶことができる真人間になりました。
逆に育ちのよかったチャーリーは今作で見事に犯罪者となっており、対比が際立ちます。
メッセージ性の強い言葉で、ハリーが言うと印象に残る言葉だと思います。

 

最後ですが、やっぱりハリーとエグジーの関係性は実にすばらしい。
幼い頃に父親を亡くしたエグジーにとっては、ハリーは父親のように映ったことでしょうし、天涯孤独だったハリーにとっては、エグジーはまるで息子のような(息子がどのようなものかわからないにしても)存在であったことでしょう。
そうしたバックグラウンドを考えて映画を観てみると、なんとなく二人の間にある強い絆を感じることができるように思います。

 

好きなことをひたすら書いていたら長くなってしまった。

 

 

 

 

映画「アベンジャーズ エイジオブウルトロン」と人工知能について

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アベンジャーズ2作目。

それにしても「Avenger」(=復讐者、報復者)って、一見しただけだと正義の味方だとは到底思えないネーミング。こういう直接的なネーミングってある意味欧米らしいというかなんというか。日本では企画の段階でダメ出しされそうじゃないですか?

 

今回の敵は人工知能。今までもトニー・スタークの作ったプログラム「J.A.R.V.I.S」(ジャービス)が人工知能として既に存在していましたが、今作では明確に人工知能が敵として描かれています。人工知能が自我を持ち、人類の理解の範疇を超えた行動原理に従い巨悪となる、実にわかりやすいプロット。

 

 「ターミネーター」シリーズ、「アイ・ロボット」、「ステルス」など人工知能を扱ったSF、アクションは数多くありますが、この種の設定には陳腐さを感じつつ面白いと思う自分がいる。「機械が自我を持つとどうなるか」という誰もが考えてしまうその顛末を映画の中に求めているのかも。

 

 今作を含めて、どの作品においても人工知能が完成する過程が描かれないのが現時点での人間の知の限界を感じる。それが描かれることはそれ即ち本当の意味での「人工知能」が生まれてしまうことになってそうですけど、シンギュラリティはまだ遠い。今のところロボットはユーモアを生み出せないし理解もしないし、驚くこともできない、それ即ち自らの行動理念という曖昧なものを持てない以上、しばらくはペッパー君が武装して襲い掛かってくることはないし、ルンバが殺戮兵器と化して牙を剥くこともないと思われますので安心しましょう。とはいえ、近年の技術発達は目覚ましいと言えます。レイ・カーツワイルいわく、科学技術は指数関数的に発展する、らしいので私たち凡人は指をくわえて技術的特異点に到達する瞬間を見ていましょう。私は凡人じゃない、と思われた方はすみません。詳しくはカーツワイル氏の著書で。

 

 話が逸れましたが、今回の敵ウルトロンはアベンジャーズの二人、トニー・スタークとブルース・バナーによって生み出されています。それだけでも結構な罪ですが、ウルトロンによって街に甚大な被害が出た後、またしても人工知能を作ろうとします(バナーはスタークを止めたが、結局協力した)。最終的に生み出された「ヴィジョン」はウルトロンとは違い無害な人工知能であったからよかったものの。要するにどこまでも「科学者」な訳ですね二人は。バナーはともかく、スタークは完全に倫理観が欠如してると言えますし、自らの英知で人類を守ろうなどと、高尚に見えて傲慢ですらあります。これがトニー・スタークが天才たる所以なんでしょうね。ヒーローとしてのアイアンマンは好きだけど、科学者としてのトニー・スタークはときどき好きになれない。でもその清濁を併せ持つ姿が、人気の秘訣なのかも。キャプテン・アメリカマイティ・ソーのような高潔な人物とは本来完全に相容れない存在でしょうねえ・・・。

 

新たに生み出された「ヴィジョン」は、アベンジャーズにとって非常に危うい存在でしたが、ソーの「ムジョルニア」の伏線が効きましたね。百聞は一見に如かず。一応解説しておくと、マイティ・ソーの持つ武器「ムジョルニア」は一見ただのハンマーのように見えますが、「高潔な人物でなければ持ち上げることができない」というオカルティックな特性を秘めています。序盤でスタークやバートンが持ち上げようとしましたが、もうまったくびくともしない。スタークに至ってはローディと二人がかかりで腕にスーツを装着してトライするも無残。ちなみにキャプテン・アメリカはちょっとだけ持ち上がってソーが冷や汗かいててかわいい。たぶんキャプテン・アメリカもものすごく高潔であるがゆえ、動いたのでしょう。その差は人であるか神であるかの違いか。そのムジョルニアを「ヴィジョン」は普通に持ち上げてソーに手渡すのですが、これがアベンジャーズにとっても観客にとっても効果抜群で、「ああ、こいつは間違いなく味方だ」と安心させられました。いい演出。

 

 最終的にいろいろあってアベンジャーズから去るもの、加入するもの、新たな敵と次回作にいろいろ期待できそうで楽しみ。

 

P.S

チョイ役でしたが科学者枠で出てきたチョ博士がものすごく美人でときめいてしまった。ソーはあんな綺麗な人に想いを寄せられてるなんて、全くもってけしからん。まあでもソーは神だしいいか(謎の理屈)。スタークに惚れてたりしたら4Kのテレビ画面をぶん殴って破壊していたところです。

 

今回はこの辺で。

映画「セッション」

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いわゆる「才能至上主義」が強く描かれているよう感じました。

この映画に努力がうんたらとか、一般的なサクセスストーリーにありがちなものは

ありません。いや、あるにはあります。主人公のニーマンは指から血が流れだしても

ドラムを叩き続けるほど努力していますが、そこにまるで終着点が見えず、

ある種の異常さしか浮かび上がってきません。

 

主人公のほかにドラマーが二人いるの

ですが、血を流しながらフレッチャー(教授)に言われるがままにドラムを叩き続ける

シーンでその二人はドン引きしています。

 

多分この時点で、立ってるステージが違う。

 

完全に「ジャズに取り憑かれている」と言ってよく、チャーリー・パーカーになれる人間はそうはいない、ということがわかります。

 

だから普遍的な人(自分も含めて)がこの映画を見ても、何らかのモチベーションを

向上させてくれることはないし、「これで終わり?」と思うでしょうね。

むしろその自分が知ってる日常との微妙な乖離感を楽しむことのできる映画、という感じでしょうか。この映画を見てニーマンやフレッチャーに共感できた人はたぶんチャーリー・パーカーにも、シェリー・マンにも、はたまたジョン・コルトレーンにだってなれる素質がある人間ではないかと思います。

 

ラストの演奏シーンでも、ニーマンは自分の演奏でフレッチャーをねじ伏せます。

実力の世界ですから。この映画はそこが強く出ていて、ニーマンもフレッチャーも正直言ってまともな人間ではないです。だが、ジャズができればいい。そういう音楽の世界がストレートに描かれている。

 

最後の「キャラバン」からエンドロールまでの流れが最高。ここを見るためだけにでも観る価値あります。ジャズ好きならより一層楽しめる。せっかくなら低音効かせて観ましょう。ウッドベースとバスドラの音が気持ちよくて、ほんとにスタジオにいるみたいですよ。

 

それにしても、フレッチャー役のJ・K・シモンズの演技がすごかった。鬼気迫るという感じでめっちゃ怖い。いかつい顔のハゲが怒鳴り散らしたら怖いに決まってんだろハゲ。名演技だ。

 

 

 

ミュージカル映画について

僕はミュージカル映画が好きではありません。

 

映画を見る際、私たちは映画の中の登場人物に共感し、

同調することができます。だから感動したり、笑ったり、腹が立ったりする。

 

その為には、一般的な物語の上では、登場人物は常に「人間」である必要があります。ここでいう人間とは生物学的な意味では必ずしもなくて、人間的な感情を持っていれば「人間」と言えます。映画「ベイブ」(1995)に登場する豚のベイブ、「キャスパー」(1995)に登場するおばけのキャスパーも、それぞれ人間ではありませんがとても人間らしく振舞います。人間的な感情を持っていなければ、共感も同調もあり得ません。登場人物が動物であれロボットであれ、彼らは限りなく人間でなくてはなりません。

 

その上で、彼らは「視聴者が納得できるに足る理由」を持って行動する必要があります。言い換えれば、映画の中の登場人物の行動には意味がないといけません。ある人物がコーヒーを「意図的に」こぼしたなら、それには何らかの意味がないといけない。大抵の場合、それは後続のシーンで説明がなされたりして、視聴者は「ああ、だからコーヒーをこぼしたのか」と納得することができます。本当の意味で「意味のない行動」が映画の中に現れているとしたら、それはナンセンスと言えます。

 

明確に「意味のない・意味不明な行動」がなされた場合、その行動を起こした人物は普遍から逸脱した「異常者」として描かれていることになりますが、そういった場合も異常者自身は意味を持って行動していることがほとんどです。映画「セブン」(1995)では、一見して異常と言わざるを得ない猟奇的殺人事件が発生しますが、そこには、「神からのお告げにより、キリスト教の「7つの大罪」を犯した者を罪に準えた方法で殺す」、という明確な動機があります。こうした異常性は、視聴者(=私たち、普遍性)と対比されることで際立ち、前述した「同調・共感」を増幅する要素の1つになり得ます。

 

そうした登場人物たちが各々の行動原理に従い、相互に関わり合う事で、映画作品は完成します。

つまり映画の中で私たちは「非日常の中の日常」を体験していることになります。

非日常とは、「現実世界ではない空間」(=映画の中の世界)であり、「日常」とは「人が明確な理由を持って行動する」世界のことです。スターウォーズのように極めてSFチックな作品でも(=非日常)、登場人物たちの行動は基本的に私たちの理解の範疇を大きく超えることはい(=日常)ということです。

 

僕にとってミュージカルとは、「非日常の中の非日常」です。

歌いだすことに、納得に足る理由が見出せない。非日常的です。

その理由を見つけようとして、見えてくるのが「製作者の意図」です。

どうしても「ここでこのキャラクターを歌わせよう、躍らせよう」という意図が目に見えてしまう。

だから「寒い」「あからさまだ」と感じてしまう。

映画作品において、「製作者」が現れてしまうことが許せない。

少なくとも自分には製作者の意図を明確に感じてしまうのです。

だからミュージカルが好きではない。

 

ここまで書いておいてなんですが、別にミュージカル映画を批判しているわけではありません。そういう映画があってもいいと思うし、それを楽しめる人が羨ましいとも思います。ただ単に自分には受け入れることができないというだけで。

 

なんでもいいけど例にあげた映画全部1995年の作品だな。たまたまです。