青は透明

思考のたれ流し

映画「グッバイ・リチャード」感想 待ち受ける死に対しどう向き合うか?

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久々感想。

 

大学教授であるリチャードが、既に末期の癌細胞に侵されており余命が持って半年だと告げられる。事実を受け止めきれないリチャードは自棄になり、投げやりな生活を送るようになるのだが、その中で残された時間をできるだけ有意義に使おうとしてゆくリチャードの生き様を描いている。

 

メインテーマとなる「待ち受ける死」について。

思うに、「死」というものの概念の重さは他の何にも勝る。

 

ここでいう「重さ」というのはなんというか、「インパクト」みたいなもの。
人生におけるイベントの終着点、これと天秤が釣り合うほどのインパクトを持つのは「生」(=この世に産まれ落ちること)しかない。
0が1になる生と、1が0になる死、これは概念的には等価で釣り合うはずだし、逆にその物差しで見ればそれ以外のイベントは0を1にしたり1を0にすることもない、「些細なこと」と捉えることさえできる。

 

よく「死ぬよりつらい苦痛」とかって言ったりするが、そもそも死そのものが痛みをもたらすわけではなく、たいていそれは死に至るまでのプロセスで感じる苦痛のことで、交通事故で死ぬ、リチャードのように癌で死ぬ、銃で撃ち殺されて死ぬ、老衰で死ぬ、どれもその過程で感じる痛みはあれど死はただの結果なので死と痛みはそもそも同じ天秤に載せることすらできない。

 

ニュースで世界中の人が今日もまたどこかで死んでいることがわかるのに、身近に感じることのない概念。むしろ死に対して根源的な恐怖を抱いているからこそ、身近に感じることができないようになっているのかもしれない。だからこそ、「あなたの余命はあと半年しかない」という事実を突きつけられた場合、それはさぞ受け入れがたいはず。
なぜならば「いつか死ぬ」とは理解していながら、たいていの場合「それは今じゃない」と思い続けているのだから。

 

相対する概念の「生」の場合、胎児としてこの世に生まれた時点の記憶を保持している人間はいないから、いわゆる「生の喜び」を享受するのはいつだって第三者(親、友人)であり当事者ではない。自分で本来の意味での生の喜びを自覚した人はいないはず。
それに対し、「死」はそれそのものが近くに忍び寄っていることを認識できる状態にいるので、
空虚な人生を生きているとしたら、自分の人生がただ尻すぼみに終わってしまうような気さえしてしまう。生の喜びと死の絶望の重さを等価としたら、ただ釣り合いが取れるだけで、まるでなんてことはない気がするのに。芽吹いた命が枯れゆく自然の摂理のように、と達観できればどれだけ楽だろうか?

 

リチャードは、乾ききった夫婦関係に疲れ、また大学では上辺だけの教鞭をとる、充実とは程遠い生活を送っている中、上述したような死に対する絶望を感じたために、劇中でひどく投げやりになる。
余命宣告されたのは、彼にとって「終わりの始まり」だった。
しかし日を追うごとに冷静になり、「日々を有意義に過ごそう」というような前向きな姿勢になっている。
終わりの始まりの果ての終わりを悲劇ではなく喜劇にしようとするストーリー。
日常に意味を与えるのが、日常の終わりである死というのはなんとも逆説的な感じがする。

 

いわゆる「受容」。それを絶望として捉えず来るべき結末として認識し、であれば残された時間を有効に使おうというもの。
ここがミソな気がする。
「時間を有意義に使おう」なんて当たり前の教訓ではなく、
死という明確な終わりが極めて身近になったことで、時間や自分にまつわる全て(家族、友人、大学の教え子など)の存在をいとおしみ、あらゆる事象を今までと違った視点から捉えようとしたこと。
実はその視点と言うのはリチャード含む誰しもが平時から持っているものなのに、なかなか同じように振る舞うことはできない。
何故なら、死が遠い所にあり、そうあるうちは1が0になるよりも、毎日の仕事の憂鬱さの方が怖いし、人間関係や自身の困窮した経済的な問題など、「些細なこと」のほうに恐怖を感じているから。
「死ぬよりマシ」「死ぬこと以外はかすり傷」、こういう考え方は割と、何にも勝る死の根源的恐怖を端的に示している気がする。
現代社会は生きるか死ぬかという単純化された二極構造ではなく非常に複雑化しているので、死に対する恐怖をある時点まで認識できないようになってしまっている。死を度外視して「どのように生きるか」だけを考えてしまう。たぶん先進国ほどこういう考え方になるんじゃないかしら。紛争地帯などだとまさに「生か死か」という世界だし、逆に安心安全な日本で死の恐怖に怯える人がどれだけいるだろう。

 

誰も彼もが期限付きの人生、愛せる人、大事にできるものが限られているのに、まるで時間は無制限のものであるかのように振る舞い、時間をいたずらに浪費する。なんと愚かしいことか!
死という概念がどすんと落ちてくることで、見えなかったものが浮き彫りになる。
「明日、自殺する」と決意した途端、ある種の全能感を感じないだろうか。他の総ての悩みや苦しみが矮小に思えないだろうか。(三島由紀夫がこんなことを言ってなかったっけ?)
どうせ明日死ぬのだから、自分のしたいことをしたいだけやろう、行きたいところに行こう、食べたいものを食べよう、しゃべりたい人としゃべろう。

そんな気持ちにならないだろうか。

 

でもそれは待ち受ける死という存在が身近にはなくても、遠くに感じていても、それはきっとそのようにあるべき。


....
シンプルに面白い映画だった。
死を受容しどんどん無敵になっていくリチャードは見ていて気持ちいい。
なんか、ジョニーデップが普通の人間を演じているのを久しぶりに見たような。

 

つらつらと長文で限られた人生云々とのたまっているのに休日に夕方まで寝てしまうのをやめられない。誠に愚かしい人間でございます。
死期を宣告でもされたらもう少し精力的になるのかな。。。

Netflixオリジナル作品「クイーンズ・ギャンビット」感想 才能と努力と環境と・・・【ネタバレあり】

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QB

孤児である少女エリザベス・ハーモンが、チェスにおいて天賦の才を目覚めさせ、世界トッププレイヤーであるソビエトのヴァシリー・ボルゴフを打ち負かすまでのストーリー。

 

めっちゃ面白くて、7話一気に観てしまった。

 

まずどんな分野においても、高みに昇りつめるためには、タイトルに記載したような3つの要素が必要だと思う。

 

まずは「才能」。これはどうしようもなく先天的なものがある。全く同じ経験値を積んでも、凡才が人並みに成長をする間に、天賦の才を持つ者は持たざる者よりも早く成長する。エリザベスは間違いなく天賦の才を持つチェスプレイヤーだった。しかしやはりどの世界でも、才能だけで戦っていけるようなぬるさはない。事実、米国チェス王者であるベニーに、過去の対局において自分の負け筋を指摘され、自分のプレイが完ぺきではないことを思い知らされる。特にこのあたりからエリザベスはチェスにより没頭していくような雰囲気がある。

 

「努力」。才能では足りない部分は努力でカバーする必要がある。これも、エリザベスがひしめく強豪たちに打ち勝つためには、本を読み、棋譜を研究し、定石を把握し、あらゆるパターンの打ち筋を知る必要があった。これも如実に描かれていた。

 

「環境」。上記2つの才能と努力もそうだが、エリザベスは特に環境に恵まれていたように思える。

 

孤児院で黒板消しをはたきにいった地下室で、たまたま用務員のシャイベルさんがチェスを打っているところを見た。それを見て興味を持ったのがきっかけでチェスをはじめた。地下室に通い詰めて、シャイベルさんに打ち方、定石、マナーなどを教えてもらった。恐らくシャイベルさんとの出会いがなければ彼女の天賦の才は日の目を見ることはなかったに違いない。シャイベルさん自身が優秀な打ち手であったゆえに、彼女の非凡さに気づき、チェスクラブのある高校へ招待してくれるよう打診してくれたのも大きい。

 

他にも・・・

 

・過去に戦った強豪たち(トーナメントで初めて打ち負かしたタウンズ、州チャンピオンのベルティックや、逆に初めて自分を打ち負かしたベニーなど)が、打倒ボルゴフのため棋譜の研究や練習対局をしてくれる。

 

・ボルゴフとは計3回戦うことになる。1回目はメキシコシティ、2回目はパリ、3回目はモスクワ。1回目と2回目に敗戦するのだが、特に2回目の敗北がエリザベスの心を折る。自棄になり酒浸りになるが、孤児院時代の友人ジョリーンが家を訪ねてきて、エリザベスの目を覚まさせてくれる。

 

どうしようもない挫折から立ち直ったり、堕落から抜け出すことはいつだって難しい。もしかしたらエリザベスもその泥沼にはまり込み、抜け出せることはなかったかもしれない。しかし周囲の人間たちがそうはさせなかった。彼女自身ではなく、外的要因により彼女が成長するきっかけとなったと言える。持つべきものは友だと。

 

 

敢えてタイトルには書かなかったが、ある分野で羽ばたくためにはもうひとつ重要な要素があると思う。

 

「熱意」ではないかと思う。「どれだけその対象を愛しているか」と言い換えてもいい。少し触れたが、最初の公式戦でエリザベスに打ち負かされた州チャンピオンのベルティックは、ボルゴフの敗戦により落ち込んでいたエリザベスを訪ね、励まし、また対局相手となり再戦に向けた研究を行う。しかし、エリザベスのチェスに対するその才能と入れ込み具合を目の当たりにしたことで、自分のチェスに対する愛情がそれほどのものでもないということに気づかされてしまうシーンがある。州チャンピオンとまでなっているのだから、ベルティックもまた非凡な打ち手であったことだろう。しかし、圧倒的な才を眼前にして、燃えていた蠟燭の灯が消えてしまったのだろう。これはそれほど稀なことではないように思える。例を挙げると、個人的な話にはなるが、自分も趣味でギターを弾いており、ある程度の実力はあるように思うが、それでもこれまで天才としか言えないようなギタリストと会ったことがあり、その人を前にすると、「ああ、こんな人がいるんじゃプロの世界なんて無理だな」と落胆する。恐らく蝋燭の灯が激しく燃える人種、つまり強烈な熱意を持つ人であれば、圧倒的な才能を目の当たりにしたらさらに激しく燃え上がる。自分と同じく、ベルティックはそうではなかった。だからチェスで高みを目指すのを諦めてしまった。

 

対照的に、初めてエリザベスを打ち負かした相手であるベニーはチェスへの情熱にありふれていた。チェスに生きていた。常にチェスの話をする。ホテルのウェイターにまでチェスのうんちくを披露する。ことあるごとにチェスを打とうと誘ってくる。エリザベスが一夜の交わりを期待したとき、「セックスはなしだ」と釘を刺す。友人を呼んで酒盛りをするのかと思いきや、その友人たちも実はチェス打ちで多面早打ちをおっぱじめる始末。エリザベスと同じく天賦の才、そして同じだけの熱意を持つがゆえに、彼女の自分と同等かそれ以上の才能に触れても、熱意が消えることがない。好きなものを全力で好きでい続けること、簡単なように見えて、意外に難しいのかもしれない。

 

この映画のチェスプレイヤーはみな、勝てば喜び、負ければ悔しそうにしたり、潔く投了したり、はたまた怒りで握手もせずにその場を立ったり。こういう感情が出るということは、やはりチェスに対して熱意があるからだと思う。仮に義務的にチェスをプレイしてそんな感情が出るだろうか?

 

また、印象的なシーンとして、パリでソビエトの天才少年プレイヤー、ジョージ・ギレフと対局するシーンがある。彼は14歳にしてエリザベスと同レベルの戦いを繰り広げ、2日間にわたる長丁場の対局の末にエリザベスに敗北する。彼は対局後、エリザベスと二言三言かわすのだが、「3年後に世界トップになる」と言う。それに対してエリザベスは「そのあとはどうするの?」と。口ごもるギレフ。

 

これは、世界の頂点に立つ、ということが「目的」か「結果」なのか、ということだと思った。少なくとも今のギレフにとってそれは目的であるため、目的を達成した後にどうするの、と言われても、答えに困ることだろう。対してエリザベスは、自分がチェスをプレイする上で自分がトップになることは結果であるから、こういう質問が出たのだと思う。この質問の答えをエンディングに見ることができる。

 

エリザベスはモスクワの公園を歩く。そこでは老人たちが並べられたチェス盤で自由気ままに対局していた。一目で世界チャンプだと気づいた老人たちは、彼女に一局すすめる。彼女はとてもうれしそうに、老人の前に座り、対局をはじめようとする。

 

この対局には意味がない。意味というのは、彼女のキャリアに何の影響も与えないし、賞金も出ない。しかし彼女はとても満足そうな表情をしている。要するに、「チェスをプレイすること」自体が彼女の本質なのであって、それに伴ういかなる事もそれに先んじることはない、ということではないかと思う。エリザベスにチェスに対する愛情が垣間見れる、いいシーン。

 

【その他、よかったところとか】

ソ連のプレイヤーとアメリカのプレイヤー(エリザベス)の対局が、打倒共産主義プロパガンダとして利用されそうになるシーンがあるのだが、エリザベスはこれを跳ねのける。そんな背景がありつつも、モスクワでソ連のプレイヤーと対決した際は、純粋にお互いに対するリスペクトがあってとても気持ちよかった。元世界チャンピオンのルチェンコは、「これで気持ちよく投了できる」と潔く、それまで常に無表情で何を考えているかわからなかった最強のボロゴフも、エリザベスに負けると「君の勝ちだ」、とキングの駒とともに柔らかい表情で握手を求める。お互いにハグしあい、ボロゴフは惜しみない喝采をエリザベスに贈る。高みを求め合ったもの同士のなんとも尊く、高潔な心が見て取れる。こんな清い対局の場をプロパガンダに用いようとは、いつだって余計な水を差すのはバカで愚かな第三者。純粋な勝負の場にお国柄など関係ない。スカッとする。

 

・ボロゴフとの3戦目、覚醒して天井に棋譜を幻視するエリザベス超カッコいい。薬物とアルコールから脱却し、これまでのプロセスで得たものが開花した瞬間はシビれる。

 

・いつも思うけど、テーマになる物事のルールとかをよく知らなくてもここまで面白く作れるって本当にすごい。ちなみに自分もチェスのルール全然知らない。

 

・ロシアにはいつか行ってみたいと思わせられる綺麗なモスクワの描写。ちょっと怖いけどね。

 

いやー、本当に面白かった。

映画「ブラッド・ダイヤモンド」(2006) ダイヤを求めて流れる血【ネタバレあり】

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blooddiamond

備忘も兼ねて久々にきちんと文章書こうと思います。

この映画、大学生のころに授業で見て印象に残っていたんですがもう一度視聴してきちんとした感想を記します。

 

いわゆるシエラレオネにおける「紛争ダイヤモンド」にまつわる話。

ダイヤモンドはその産出国に大きな利益をもたらしますが、特に紛争地帯などでその利益が紛争の資金源になっているものをそう呼ぶそうです。ダイヤの売却によって得た利益で紛争国は武器商人から武器を購入する⇒武器商人は国を問わず支援するので、多くの武器が紛争国に流入する⇒紛争がさらに激化する、というまさにダイヤの産出によって起こる悪循環。まさに血塗られたダイヤ、ブラッド・ダイヤモンドです。

 

ディカプリオ演じる主人公ダニー・アーチャーはそんな悪循環に加担するダイヤ密輸業者のひとりで、紛争国に武器を引き渡す代わりににダイヤを受け取り、複雑なロンダリングの末に利益を手に入れる狡猾な人間です。

 

一方、そんな悪循環に巻き込まれてしまう無垢な漁師、ソロモン・バンディーはRUF(革命統一戦線、Revolutionary United Front)という武装勢力に家族を攫われた上(しかも息子ディアはRUFの戦闘員として洗脳される!)、自らはダイヤ採掘の労働力として奴隷にさせられるという憂き目に遭います。ちなみにRUFは言うなれば反政府の無法者集団であり、略奪虐殺当たり前、人道なんて知ったこっちゃない完全に世紀末の様相を呈しています。

まとめると、

ソロモン「家族といっしょで幸せ!」

RUF「政府と戦争するぜ!でもそのためには武器がいる!武器を買うには金が要る!俺らはダイヤの原産地を抑えてるから、一般市民を拘束して奴隷にしてダイヤを掘らせ、見つけたダイヤを売って稼いだ金で武器を買う!お前労働力として使うからちょっとこいや」

ソロモン「何もしてないのにダイヤ採掘奴隷にさせられた」

アーチャー「武器売るから奴隷が掘ったダイヤちょーだい」

RUF「まいど!」

こんな感じ。

 

奴隷となったソロモンは採掘の最中、通常ではありえないサイズのピンクダイヤを見つけてしまいます。こっそりと持ち出して地面に埋めようとしますが、RUFのポイズン隊長に見つかってしまい一大事。しかしここで政府軍による爆撃が行われ、採掘地一体は大混乱。それに乗じてソロモンはピンクダイヤを隠します。

 

RUF、奴隷共々シエラレオネの刑務所にぶち込まれますが、そこで負傷したポイズン隊長がソロモンを見つけ「あのダイヤを差し出せ」と脅しますが、ソロモンはすっとぼける。しかし大声で騒ぎ立てたため、ある人物にもそのダイヤの存在が知られます。その人物こそアーチャーです。実はアーチャーは爆撃が起こる前にダイヤ密輸が国境にてばれてしまい、同じ刑務所に投獄されていたのです。根回しにより自分は刑務所から出て、ダイヤのありかを知るためにソロモンも同じく釈放させます。ここから物語は始まります。

 

大粒とピンクダイヤとなればとてつもない価格がつくでしょう。アーチャーはとにかく金が稼ぎたいため、ソロモンにしつこく付きまとってありかを教えてもらおうとしますが・・・。また、途中でダイヤ密輸を追うジャーナリストの女性マディと出会いもあり、事態はどんどん進展していきます。

 

まあ、導入のあらすじはこんなもんでいいでしょう。主要な登場人物とその行動原理を記す。。

【アーチャー】

恐らく利益でしょうが、意外なことに彼の行動原理は明確になっていません。

途中ピンクダイヤの隠し場所へソロモンと向かう途中に、こんな問答があります。

****************************************************************

ソロモン「金は持ってるのか?(資産という意味で)」

アーチャー「少しな」

ソロモン「まだ足りない?」

アーチャー「まだだ」

ソロモン「あのダイヤで十分な金が手に入る」

アーチャー「ああ」

ソロモン「なら結婚して子供を作る?」

アーチャー「多分しない」

ソロモン「理解できない」

*****************************************************************

恐らく何かの為に金を稼いでいるということではなくて、利益を追求することが目的になってしまっており、本人も自分の行動原理をよくわかっていないように見えました。

 

【ソロモン】

家族。これに尽きる。ソロモンが家族以上に大切にしているものなどないといっても過言ではないでしょう。だから上記のアーチャーとの問答で「理解できない」と言っているのでしょう。恐らくダイヤをちょろまかしたのも利己心からではなく家族のためでしょう。作中では妻ジャシーや息子ディアのために自分を見失って取り乱したり、かなりの無茶をしてしまいアーチャーがイライラします。これぞ価値観の相違。アーチャーとの相性はその性質ゆえかなり悪く、マディとは比較的良好。同情もあるしね。

 

【マディ】

正義。彼女はジャーナリズムのあるべき姿の体現者とも言えるような人間で、ダイヤ密輸という悪を追跡し、世間に公表して裁くという信念の名のもとに行動します。彼女にとってアーチャーは追跡するべき対象で、ソロモンは被害者である。

 

最も利己的に見えるアーチャーの行動原理がよくわからないのが面白い。もっと言うとたぶんアーチャーは自分の本質を見失っている。幼いころに両親を殺され、そこからは軍役、多くの戦争経験をアフリカという地で経て今のアーチャーを形成している。金はあれど彼の心はどれだけ豊かだったのだろうか?大切な家族に囲まれて、愛をはぐくんだソロモンや、正義感に燃えて世界を飛び回るマディと比して、彼の行動原理のなんと空虚なことか。本来であればなんとなくでも持っているはずの「生きる目的」そのものを、金を稼ぐことにすり替えているように思える。途中からは、ソロモンのように他者に愛を持つことに理解を示していくように見える。マディのジャーナリストとしての正義感にあてられて、自らの行いを非として認めだしていくような雰囲気がある。

 

家族愛に生きる男ソロモン、正義感に燃える女マディとともに行動していく中で、見失っていた自らの本質を再発見していく、そんなストーリーに見えました。

 

もともとアーチャーはピンクダイヤの売却利益をソロモンを差し置いてコッツィー大佐(民間軍事会社の大佐、ダイヤの知識や密輸について教えてもらった育ての親みたいなもの)と山分けする計画を持っていました。ソロモンは隠していたピンクダイヤを掘り出しますが、大佐たちがアーチャーを見限った上(これはアーチャーが命令に背いたりしていたことにも原因がある)に、ソロモン、ディアにまで危害を加えようとしたために、最終的に大佐を裏切ってソロモンたちとシエラレオネをヘリで脱出しようとします。しかしアーチャーは実は撃たれており、ヘリの来る尾根までソロモンに担いでもらいましたが、もうダメだ、俺を置いていけというのです。

 

そう、ピンクダイヤをソロモンに渡して。

 

 

出血量から自分の命が長くないことを悟ったアーチャーは、懐から掘り出したピンクダイヤを取り出し、それを見て意味ありげに笑います。

 

心の声が聞こえてくるようです。

 

こんなちっぽけな石コロのためになんで誰も彼も争ってしまうのか、そして俺自身もその諍いに巻き込まれてしまうなんて、本当にバカらしい。

 

そんなふうに。

 

そしてそれをソロモンに渡します。

 

ソロモンは当然驚きます。横取りするはずだったんではと。

アーチャーは言います。「少し考えたさ」、と。笑う二人。

 

ソロモンとは今生の別れになります。ソロモンは担いでやるから大丈夫、と言いますが、ここのやりとりがディカプリオの演技込みで本当に泣けてくる。あれだけ利己的だったアーチャーがこんなこと言います。

 

「連絡先を渡すから、帰ったらマディに電話で連絡しろ。(銃を渡しつつ)それから脱出ヘリのパイロットは信用するな、妙な真似をしたらこれで脅せ。息子を家に連れて帰れ。」とどこまでもソロモンの心配。

 

アーチャーもきっと生来は思いやりのある優しい人間だったはずです。ここはそれが見て取れるなんとも人情味のあるシーンで、大好きです。自分の本質をここで見つけられた気がする。

 

ソロモンと別れてから、アーチャーはマディに最後の力で電話をかけて別れの挨拶をします。ここ名台詞。

 

「I'm exactly where I'm supposed to be.」(俺は俺があるべきところにいる)

 

日本語訳だと「これでよかったんだ」しか訳されていませんが、解釈としては、、、

アーチャーは白人ですがアフリカ(ローデシア)出身です。アフリカという広大な地は彼の故郷なのです。今いるこの地こそが自分の故郷であり、そこで今死ぬことに寸分の間違いはないと。まるで後悔の念も感じない表情でそう言い放ちます。恐らく彼の中では、どこかでこの金ばかりで空虚だった人生に、ソロモンとマディが最後に意味を与えてくれたからこそ言えたことだと思います。

 

最終的にはアーチャーが暴露したピンクダイヤの売り先(イギリスのダイヤモンド会社)を、マディが記事を書いて告発することで、紛争ダイヤモンドという負のスパイラルがこの世から消えていくきっかけとなります。3人によって正義はなされたのです。

 

印象に残っているシーンですが、コッツィー大佐が、「この大陸の赤土は、流れた血の色だ。」ということを言います。争いで数多の血が流れたことの皮肉でしょう。アーチャーは最後、自分の銃創から流れ出る血が土に滴っているのを見ます。その手で土を握りしめて、彼は何を思ったのでしょうか。まあ、そこまでは野暮なので敢えて言わないようにします。

 

長くなってしまった。それにしてもディカプリオは本当に名優ですね。

 

【ネタバレあり】今更The Last of Usをプレイしたのでその良さを書きたい

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The Last of Us

 2013年に発売されたタイトルですが、ここ最近PS4でリマスター版をクリアしました。

言わずと知れた名作ですが、皆がこぞって言うだけはある素晴らしいストーリーが描かれています。以下、ネタバレ含むのでご注意を。

 

 

このゲームで好きなところは、圧倒的な「救いの無さ」。

序盤で最愛の娘サラを失うところから悲しみの連鎖が終盤まで続きます。

非常に暗いストーリーであり、途中で胸が苦しくなるようなシーンも多々あります。

プレイヤーである私たち自身は、主人公であるジョエルを主観にして物語を体験します。自分自身(=ジョエル)に救いを求めて旅をするわけですが、邂逅するのは救いではなく絶望ばかり。プレイしていてめちゃくちゃつらいです。

 

その救いの無い物語の中で、エリーという少女の存在はかなりジョエルにとって重要な存在になります。一度サラを失くしているジョエルからすれば、どこかサラの存在をエリーに投影することもあったかもしれません。ただし、その喪失はジョエルに大きなダメージを与えていることは明白です。ちょっとここで考えたいのが、「他人の存在が自分の存在意義になりうる」ということです。それを考えるにあたり、出てくるのがヘンリーとサムです。

彼らは道中で出会う兄弟であり、ジョエルたちと協力しながら旅をします。

実際に血の繋がった兄弟ですから、絆という意味ではこれ以上に大きなものはないでしょうし、実際にヘンリーは常にサムを気にかけていました。

しかし、サムが知らずのうちに感染してしまっておりエリーを襲い、ヘンリーはやむを得ず発砲してサムを殺します。自分の弟をその手で殺したわけです。そして、その直後サムは自害します。このシーンは、サムがヘンリーにとって自身の存在意義、あるいはその一部となっていたことが見て取れます。つまり、その存在意義を喪失したという事実、そして自責の念に堪えられずに死ぬことを選んでしまった。これは、他人の存在が自分の存在意義となっていたから起こったことのはずです。もしサムがヘンリーにとってどうでもいい存在ならそうはならなかったはず。当たり前ですよね。生きる目的が希薄な終末世界における身近な者の死は、容易に死を決断させるほど大きな出来事であるということ。それを改めて実感するシーンです。

 

ジョエルは、一度存在意義である娘を失っています。普通ならヘンリーのように自死を選んでも不思議ではないでしょう。その悲しみは想像を絶するほどだったでしょう。自殺も考えたかもしれません。ですが生きることを選びました。ジョエルは、サラという存在意義を失ったあと、「自分自身が生きること」のみを自分自身の存在意義としたのではないでしょうか。生きる目的は「生きること」。娘を失い、エリーと本当の意味で絆が生まれるまでのジョエルは、かなり冷たく、人に深入りすることを避けているようでした。比較的仲の良さそうに見えたテスとも、ビジネスパートナーの域を出なかったように思えます。ジョエルは、エリーに情が移ってしまうことで、エリーが自身の存在意義となり、そしてまたそれを喪失することを恐れていたのでしょう。ヘンリーとサムという兄弟の死は、その事実をジョエルの眼前に突き付けたのでしょう。この出来事は、エリーを弟であるトミーに預けることを決断させたはず。

 

しかし、エリーはそのような機微に敏感でした。上記の件について、ジャクソン群でジョエルと口論した際、「何を怖がってるの?」と鋭い指摘をします。失うことを恐れているジョエルにとって、言い返す術はなかったでしょう。エリーも素直な部類ではなく、口には出しませんが彼女なりにジョエルを大切に思っていました。そんなエリーが、「大切な人はみんな死んだか私を置いていった、あんた以外」というあまりにもストレートな言葉を発したことに、ジョエルは何を思ったのでしょうか。この後、結局エリーをトミーに預けることをやめ、2人で旅を続けることを決めるシーンは、これまで押し殺してきた「愛情」という自分自身の感情をジョエルがサラの死後はじめて受け入れるシーンでもあり、僕が好きなシーンのひとつです。とても人間臭くて、愛おしい場面だと思います。

 

ファイアフライの病院で、寄生菌を根絶するためのワクチンを作るための犠牲にされかけたエリーを救い出します。エリー自身、それにより自身が死ぬことは伝えられていなかったと思います。ただし、エンディングに入る直前、エリー自身がこの世においてあきらめに近い感情を抱いており、生に固執していないことが見て取れます。そんな都合を鑑みず、人類の救済という大義名分を切り捨ててまでエリーを救ったジョエルの行動は、自分勝手といえばそれまでかもしれません。人類の利益の総量を考えたときに、あまりにも大きな損失であり、罪であることは間違いありません。しかし、ジョエルの悲壮な境遇を知っている私たちに、それを悪だと断じることができるでしょうか。できないでしょう。私たちは人間であり、自分が「境界」の外側にいるときは、利益の総量が多いほうの選択をすることができますが、内側にいれば、途端に合理性のみを追求することが難しくなってしまう、という欠陥を抱えた存在です。もしあなたがジョエルの立場なら、どうしたでしょうか?同じようにエリーを救いますか?それとも、人類のための行いをしますか?

 

冒頭に述べたように、圧倒的に救いが無い世界です。その中で、ジョエルとエリーの二人の絆のみが輝いて見えます。2人がどのように旅をし、絆を深めあっていくのか。The Last of Usというゲームにおいて、唯一の心のよりどころと言えます。

 

【その他、好きなところなど】

・陰鬱なBGMも世界観にマッチしていていいですね。エンディングへの入り方は本当に鳥肌が立ちます。

・季節の移り変わりが示されるところ。特に、ヘンリーとサムが死んだあとに、FALL(秋)と出るところの喪失感はいかんともしがたい。FALLは英語で「落ちる」「落下」という意味もあり、ここではその意味では使われていないでしょうが、そこからの展開に何か不安なものを感じずにはいられません。またその直後、鬱々としたどんよりした天候で物語が再開するのも、嫌な感じです(いい意味です)。ジョエルが大怪我を負った後にWINTER(冬)になるのも、ものすごく孤独を感じさせる演出。季節がどことなく想起させる感情をうまく操っている感じがする。

・戦闘が楽しい。自分はゲーム下手なので初級でしたが、敵に見つからずに一人ずつ始末していくのは必殺仕事人になった気分。

・何気ないジョエルとエリーの会話が聞いていて面白い。特に好きな会話は、東コロラド大学で、エリーがジョエルに歌をせがむところ。

・エリーがどんどんタフになっていくところは本当に見ていてじーんとくる。ジョエルが負傷したときに、傷を負いながらも一人で敵を倒して切り抜ける所なんかは、子の成長を見守る親心に近いものがある。

・世界観が綺麗。文明はすでに崩壊し、自然が街を侵食しているので、ため息が出るくらい美しい。息苦しい建物の中から外に出れたときなんかは安心感とその綺麗さにほんとにはぁ~~~~っとなる。

 

色々書きましたが、語りつくせぬほど素晴らしい作品ですね、ほんと。

そのうち2もやると思います。もう少し安くなったら買って感想書こうかな。

 

 

 

映画「屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ」感想

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  「フリッツ・ホンカ」は実在したドイツの連続殺人鬼、らしい。ある程度事実に基づいた話であるということを念頭に置いたうえでの感想です。

 

  酒浸りで独り身のホンカは、底辺ではないが、裕福ともいえず、外面もよくない。住んでる家も、古いアパートの屋根裏。たまに、酒場で引っ掛けた身なりの汚い女を家に連れ帰って、想像もしたくないような行為に及んだりする。連れ帰った女を殺す場合があり、そうした場合遺体の一部は切り取って外に遺棄し、残った部分は家の隠し収納スペースに放り込む。こうした行為を何回も行っているため、当然腐敗臭がアパート全体に広がっており、最終的に死体から湧いた蛆が階下の住人の家に降り注ぎ、犯行が明るみに出て最終的に逮捕される。

 

 まず思うのが、ホンカのルーツについて何も触れられていないこと。上述したような表層的な事しかこの話からは汲み取ることができず、映画の主体になっているのに行動原理が漠然としすぎてて一体どういう人物なのかがよくわからない。ホンカに対して一切の共感が出来ないので、ホンカの視点で描くのが失敗だったようにも思える。

 

 次に、ルーツがわからない=バックグラウンドも当然不明瞭で、どういう論理展開で殺人を犯すのかが一切語られていないこと。連れ込んだ女を全員殺すのならまだわかるが、殺さない女もいたのでそれも一貫していない。論理展開がわからない無秩序、無計画な殺人なので、恐怖を感じるプロセスをすっ飛ばしちゃってる。「え、殺すの?」って思ってしまう。「殺されるかもしれない」っていう不安の種はあっても、それを育てる過程がない。あっけらかんとしすぎててひとかけらも恐ろしさがない。

 

 殺人鬼を主題としているのに、ホンカ自身に一切の魅力がない。ここでいう魅力は外面とかそういうたぐいの話ではなくて、「カリスマ性がある」とか「徹底した美学を持っている」とか、そういう内面に秘めてる哲学の話。ホンカは「羊たちの沈黙」のレクターみたいな圧倒的な知性を持つわけでもなく、「セブン」のジョン・ドゥみたいな静かな狂気に満ち満ちているわけでもない。彼らみたいな「魅力的な殺人鬼」に比べると、ホンカは「矮小な小市民」。最後、自分が目をつけていた美人な娘がすぐ近くにいるのに、自分の家に警察が入っているのを見て、「捕まってしまう」と恐れているところからして、生来の異常者でないことは明らか。レクターなら、ジョン・ドゥ、ならそんなことは気にせずに娘に手をかけていたんじゃないですかね。ifの話ですが。

 

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レクター博士とジョン・ドゥ

 

 思うに、映画における殺人鬼が恐怖の象徴になるのは、その秘めたる異常性が観客に知らしめられるときではないんですかね。そう考えると、ホンカがそういう異常性を発揮したシーンがない。ただむやみやたらに性欲だけ強い小汚い中年が、気分で殺す。それだけ。とにかく頭の悪さだけが際立ってしまってて、殺人鬼を主題とした映画にしてはあまりにもお粗末。それとも、カリスマ性のある殺人鬼ばっかりじゃないよ、こういうバカな殺人鬼もいるよ、ってことを言いたいんでしょうか?だとしたら映画にするほどのことでもないし、ものすごくつまらない。たまたまスペシャルデーで通常1900円のところ1100円で鑑賞できましたが、それでもなお高いと感じるくらいにはお粗末。ただただ汚らしく下品で不愉快なシーンが多いだけで、わざわざ金を払って観るには値しないと断じたい。

 

 しかも遺体の一部だけ切り取って家に残してた理由も謎(記憶が正しければ、最後まで語られず)。一体なんなんだ。

 

久しぶりに面白くない映画が観れたので、感じたことをざっと書きなぐった。口直しにセブンをもう一回観たいと思えました。

【ネタバレ有】映画「DRAGON QUEST YOUR STOTY」感想

なんだかんだ言って観てきました。

 

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ちなみに自分はドラクエは7、8、10、11しかプレイしてません。

それも7は小学生の頃でしたがあほな自分には石板の謎が難しすぎて投げました。

 

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詰んだヤツ

 

結論から言うと、

 

「そこそこ楽しめたが、メタフィクションドラクエでやる必要なくね?」

 

って感じです。

 

[Wikipedia - メタフィクション] より抜粋

メタフィクション(Metafiction)とは、フィクションについてのフィクション、小説というジャンル自体に言及・批評するような小説のこと

 

要は、映画やゲームのキャラクターが属する作中世界について言及することを言います。作中の人物が「おい、画面の向こうで最近は観ているお前」、とか語り掛けてくるのを想像するとわかりやすいです。小説の枠を外れて映画やアニメ、いろんな媒体でメタフィクションが持ち込まれてますね。

 

映画やゲームにメタフィクションを持ち込むのは別にいいと思います。本来の意味のメタフィクションとは違いますが、かの有名なマトリックスや、シャッターアイランドインセプションなんかも、作品の中で完結しているメタフィクションですよね。あとは、ソードアートオンラインとか、ゲームでいうと、UNDERTALEとか。

 

面白い試みだとは思いますし、オーディエンスの意表を突くことだできる手法だと思いますが、今回に関しては題材がまずいのではなかったかなあと。

 

ドラクエです。多くの日本人にとってRPGの代名詞的存在であって、「ドラクエ」と聞いただけで剣や魔法、主人公やスライムの姿が思い浮かぶような、完全に確立された世界です。世界観が完成されすぎてて、そこにメタが入る余地がない。というか、ドラクエの世界に現実のかけらの一つも見え隠れしてほしくない。彼らは唯一無二の自我を持った純然とした主人公であり、ほかの何者の意思も介在しているはずがない。というか、そういうゲームデザインだったはず。

 

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主人公たち

 

たぶんこれを観に来る人のうち、昔プレイした記憶を思い返す人も多いでしょう。

ドラクエでなくとも、ゲームをプレイして没入し、自らを主人公に投影してプレイしていた人も少なくないはず。

 

そういう人たちはそこで最後の展開になったときに、こう思ったかもしれません。というか、自分が思った。

 

「いや、現実に引き戻すなや」

 

ゲームの中、ドラクエの中でくらい主人公でいさせてくれや。しょぼい社会人でもドラクエの世界では自分は勇者で、やれライデイン、やれ雷光一閃突きだで確立された世界の中にいるんです。それを否定されちゃうとドラクエってなんやねん、RPGってなんやねんって話になるんですけど、みたいな。そもそもRPGの根幹として、主人公に感情移入させることが重要視されているはずですよね?メタ要素の登場で一気にリアルになってしまって、主人公を見る目が「うわこいつ他人に操作されてるんやん」ってなってしまって後半はかなり萎えた。感情移入どころか、完全に第三者的な視点で主人公を俯瞰してしまいました。致命的すぎる。

 

ドラクエじゃない新規題材でこういう話をやるのは悪くないと思うんですけどね。メタをやる以上それが許容される世界観じゃないとだめです。

 

観に来る人たちはドラクエファンの人も多いと思いますが、その層が求めてるのはドラクエらしいドラクエの物語なんじゃないですかねえ。YOUR STORYってそういう意味かよ。

 

ドラクエ全く知らない人がみたらどう思うんですかね?そういう方々にとってはドラクエが新規題材ということになりますし、世界観も固着してないでしょうし普通に楽しめるかもしれませんね。

 

結構けなしてますけど、普通に楽しめはしました。すらりんとゲレゲレはかわいいし、ギガンテス達が普通にルーラする所とか、主人公と魔物2匹がブオーンに消し炭にされて帰ってくるところなんかは笑えましたし。例の展開が始まるまではちゃんとドラクエしてたと思います。自分は5やってなくてミルドラースの見た目を知らなかったので、あのフリーザの最終形態みたいなミルドラースが出てきたとき、「え、昔のラスボスがこんな洗練されたシャープなデザイン!??」って思いました。そんなわけなかった。

 

まあけど、ドラクエはやりたくなりました。

 

7の石板の謎も、今やったら解けますかね?

映画「マネーボール」(2011)、勝利への飽くなき探求とその根底にある物の正体

 

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MLBを舞台とした、ノンフィクションストーリーです。

 

「弱小チームが努力の末に強豪を打ち破る」というプロットはありきたりなものですが、この映画は少し毛色が違います。

 

主人公は弱小で資金難にあえぐチーム、アスレチックスのGM(ゼネラルマネージャ)で、「いかに出費を抑えて、ヤンキースレッドソックスのような資金力のあるチームに勝つことができるか」に心血を注ぎます。

 

途中でビリー交えたマネージャ層が「どの選手を獲得するのがいいのか」ということを議論しているのですが、ここのコントラストが面白い。

 

老いた彼ら選手たちを評しては言います。

「足が速い」「スイングがいい」「癖がない」「よく打つ」

これらの意見には、何一つ具体性がありません。

 

ビリーが求めているのは「勝利」であり、その為には「得点」が必要になります。つまり「ヒットの数」「出塁率」「四球の数」のような、具体的な「数値」を以てして選手を客観的に評価することこそが、勝利への方程式だと説くわけです(これは「セイバーメトリクス」という、統計学的見地から観た評価らしいです)。そして、「客観的評価が高いが、見向きもされていない選手」を格安で獲得しはじめます。

 

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セイバーメトリクス指標

 

論理的に導き出された「数値」は具体性を持つものですが、「経験」によってチームを運営してきた人間にとってはひどく受け入れがたいものであり、多方向から批判を受けることになりますが、アスレチックスは着々と勝利を積み重ねて、大舞台へと立つことになります。

 

野球は人間がやるスポーツである以上、例外は常に存在しえますし、規則性を外れたデータが採取できることもあるでしょうが、それでも統計を取ることで、プレイの中に傾向を見つけることが出来る訳です。よくよく考えればそれ以外に信じるに値するものなどないように思えるのですが、一昔前までは経験だけに頼り切ったチーム運営が行われていたようです。そういう意味で、ビリーは誰よりも勝つことにこだわっていたはずです。勝つためには勝つための論理がいる。至極当たり前のようなことの気がするのに誰もやってこなかった。思考停止というやつですね。戒め。

 

 

ラストシーンがグッときますね。

 

彼も昔は野球少年だった。野球が好きだった。プロのスカウトを受けた。プロになった。挫折した。スカウトとして生きることを決めた。そして、勝つことだけにこだわるようになった。

 

いつの間にか勝つことが目的になっていた。あることをきっかけにして彼は思い出したことでしょう。「自分は、野球が好きなんだ」、と。

 

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面白い映画でした。自分は野球はそこそこ好きですが、こういう視点で野球を考えたことはなかったです。今後いろいろ裏を勘ぐっちゃうかもしれません。

 

野球が好きでない人も楽しめますし、野球好きの人ならもっと楽しめる映画ではないかと思います。

 

【どうでもいい話】

途中で試合開始前の国歌斉唱シーンが入るのですが・・・

 

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あなた様は・・・

ジョー・サトリアーニやないかい!